000 ある晩秋の一日

 太陽が中天を少し過ぎた頃、ある開拓村の一角から賑やかな男たちの声が響いていた。

 薄っぺらい木板で組まれた掘っ立て小屋から出てきた彼らは、疲れを隠しきれない重々しい足取りに反して、その表情だけは底抜けに明るい。なにしろ彼らの背負った麻袋の重さは、そのまま喜びの大きさなのだから。
 今回の狩りは久々の大成功だった。冬ごもりに備えてまるまる太った大物がいくつも獲れたのだ。暮らしの厳しい開拓村とはいえ、今夜ばかりはどの家でもご馳走が振る舞われるに違いない。

「大したもんだよ“先生”は」
「ああ。あの細腕で、あんなでけェ熊をあっさりバラしちまうんだからなあ」

 荷車を曳いて持ち帰った獲物は、山鳥が八羽に野鹿が三頭、そして巨熊が一頭だ。
 森をだいぶ深くまで踏み入っただけあって、晩秋の狩りにしても大した量だった。それは贅沢をしなければ、この村の住人全員がひと冬を越すのに十分な量の肉だ。味にさえ目を瞑れば、腹をふくらませるだけの麦や芋も調達できた。この冬は餓死者を出さずに済むに違いない。この時期になると猟場を広げる山犬どもを徹底的に避けて、なおこの成果だ。笑いが止まらないとはこのことだった。

 そして狩猟で獲られる物は、なにも肉ばかりではない。たとえば大きな毛皮はこれから来る厳しい冬には欠かせないものだ。爪や牙にも様々な使い道が有るし、余ったものは行商人に売って外貨を得る手段となる――早めに調達した麦や芋は、そうして作った金で賄っている。そして血と骨には特別な価値があるとされていた。
 だが、それらの価値を損なわないよう、丁寧かつ迅速に獲物を|解体《バラ》すには熟練の技術と知識が求められる。その専門家が|解体職人《ブッチャー》。|賤職《せんしょく》――一般に卑しいとされる職業――の一つとされ、主に怪我や年齢から山野を走れなくなった狩人の|終《つい》の仕事とされている。
 それが先程まで男たちが立ち寄っていた小屋の主であり、彼らに「先生」と呼ばれる、とある青年の生業である。

「けっ」
「バラし屋なんかに|分前《わけまえ》やること|無《ね》ェだろうによ」
「だよなァ。よそ者のくせしてよ」

 賑わう大人たちの後ろを歩く少年たちは、思わず悪態をついてしまう。自分たちなど狩りに同行しても、勢子程度にしか使われないのに、さほど歳も変わらないはずのあの男は一人前の腕前と認められ、「先生」などと褒めそやされているのだ。妬ましいと思いこそすれ、感謝や尊敬の念など湧くはずもない。

 加えて彼らにとっては日頃あまり関わりが無く、親しみを持つ理由も機会もない、というのも理由の一つだろう。

 賤職である解体職人の作業場は、どんな村でも|周縁《はずれ》に建てられている。それは獲物をいの一番に持ち込むため、という都合も有ったが、最大の理由はそこが|悪臭《くさ》いからだ。

 解体職人は、なにも獲物を解体するだけの仕事ではない。たとえば皮革職人の手に渡る前に、保存に適した加工を施すのも解体職人の仕事である。狩人ならば脂肪をこそいで落とし、塩をまぶして水気を抜くくらいのことは知っている。だがそれだけでは商品としては一段格を落としてしまう。そうしないためには特殊な薬液を使った幾つもの工程が必要となる。この薬液の生成と扱いが、解体職人の腕の見せどころと言われるほどだ。
 だが、その加工に使われる薬液を作る過程で、どうしようもなく悪臭が発生してしまう。その臭いがこびりついた解体小屋は、慣れない人間にとっては近付くだけで苦行とされるほどに。ましてや薬液を作っている解体小屋の中では、大の大人が十を数えることもできやしないと言われている。

 幸い、この村の解体小屋はそこまでの臭いは無い。ある時、新しく出来た解体小屋の噂を聞いた村の子供たちが、度胸試しに小屋へと近付いたことがあった。だがその悪臭がさほどでもないことに拍子抜けをして、大人たちを嘘つきと罵った。新しい小屋なのだから臭いがついていないのは当たり前なのだが、子供たちにそんな道理が分かるはずもない。
 大人たちは次に隣村まで買い出しに出る時、一人でも多く子供らを連れて行って、ホンモノの凄まじさを味わわせてやろうと画策していることを、彼らは未だ知らない。

「分かっちゃいねえなあ、小僧どもは」
「なら自分でやってみろってんだ」
「まあそう言うな。あいつらはまだ若いんだ。気持ちも分かってやれ」

 少年たちが鼻息荒くボヤくさまに、大人たちは苦笑いを浮かべてしまう。
 まだ十と少しの若造どもだ。中には十五歳――この|大公国《くに》で成人とされる――を間近に控えた者もいるが、若造が血気盛んなことは|麻疹《はしか》のようなものだ。
 とはいえ気持ちばかりは若いつもりの男たちである。その些か老成した言葉に、突っかかってしまう者も居た。

「あん?」
「俺だって若ぇぞ。おっさん|ら《・》と一緒にするな」
「あ、てめえ、今“ら”つったな。俺とこいつを一緒にすんじゃねえよ。俺だってまだ若ぇぞ」
「そうだぞ。こんな図体して|嫁《カミ》さんに頭の上がらん野郎と一緒にすんな」
「うるせえな馬鹿野郎。そういうこたぁガキ|作っ《こさえ》てから言えってんだ」
「何だとこの野郎」
「ンだごるァ。やるかこの野郎」
「……あー」

 にわかに険悪なムードが漂い始める中、これまで黙っていた一人が口を開いた。
 背も低く、体も決して大きくはない。およそ命のやり取りをする職掌の人間としては、平凡にすぎる風体の男だった。だがその腰の|山刀《どうぐ》はこの場にいる誰のものよりも使い込まれていて、この村にある刃物のうちで一番生き血を吸っている。
 巨熊に致命の一撃を入れたのがこの小男だった。軽んじる人間などいるはずもない。
 その小男が間延びした声を出した。それだけで皆が押し黙り、物珍しげに彼を見やったのだ。バツが悪そうな面持ちで、その男は先を促した。

「喧嘩は後にしよう。で、その心は?」
「ああ?」
「いや、だから若いあいつらの気持ちを分かってやれって話だよ。デニス」
「ああ」

 先を促された大男――デニスと呼ばれていた――は、殊更ふんぞり返って偉そうに語り始めた。

「先生も年頃の男だ。あいつらとそう年の頃も変わらん」
「それがどうしたってんだ」
「俺たちは狩りに出るが、先生は村に居る。|は《・》|ず《・》|れ《・》とはいえな。他の|職方《しょくかた》連中と同じだ」
「……ああ、そうか。なるほどな」

 “職方”とは物作りを生業とする人間のことだ。細かく分ければ木工、石工、皮革、紡績、冶金、大工、裁縫、鍛冶、彫金、調薬など様々な種類があるが、要は職人である。そしてそれは町や都市、大きな村ならともかく、人手の少ない開拓村では女性が兼ねることも少なくない。
 解体職人も賤職ではあるが、職方の一つである。特に女手の多い皮革、紡績、裁縫、調薬とも関係が深い。

「嫁さんか」
「村長も名主衆も、そろそろ先生には腰を落ち着けてもらいたいだろうからな」
「あれだけ若くて腕も良い。今じゃあこの村の稼ぎ頭だからなあ」

 レイノルドはただの解体職人ではない。薬師のカミラと「シャボン」――いわゆる石鹸――という秘薬を開発した。さまざまな汚れを落とし、村の狩人の体臭すら消してしまうこの秘薬の開発は、女衆の水仕事を楽にし、狩りの効率まで抜群に上げてみせたのだ。これによって彼は「先生」と呼ばれるようになった。
 無論、本業でも人後に落ちることはない。レイノルドの毛皮は近隣では有名な特産品である。最近ではわざわざレイノルドの加工した毛皮を求めて、行商人たちが危険を冒してこの開拓村まで足を運ぶほどであった。自分たちが苦労して獲物が高く評価されることを、喜ばない狩人はいない。

 だが、これから嫁取りをしなければならない少年たちにとって、経済力抜群の同世代といえば強大な――いささか強大すぎる――ライバルだ。危険な開拓村には自然、身を護る力の無い若い女性は少なくなってしまうもの。質はともかく量が少ない、猟場としては激戦区だと言えよう。そんな中で後から来た人間が“獲物”を横取りしようとしていたら、敵愾心を持ったとしても仕方がない。

 それに気付いた大人たちは、顔を見合わせてニタリと笑った。彼らには既に嫁がいる。少年たちのような苦労は既に通過済みの彼らは、いわば勝者であった。故にこの笑みは勝者の余裕、あるいは傲慢であろう。
 童心など、とうに笑いと誇りと|武勇伝《むかしばなし》に変えてしまった彼らは、揃って楽しく高みの見物というわけだ。まあそれで自分の息子に嫁のあてが無くなっても困るが、この集団の中にはまだそこまで年のいった大人はいない。

 だらしなくニヤけ|面《づら》を向けられた少年たちが、躍起になって大人たちの邪推を否定すればするほど、大人たちは子供たちをからかって笑う。際限なく大きくなってゆく怒鳴り声と笑い声が、村に狩人たちの凱旋を告げる|鬨《とき》の声となっていった。

*   *   *

「やれやれ。やっと行ったか」

 遠ざかってゆく喧騒を見送りながら肩をもみほぐすのは、この辺りではちょっと見ないような、彫りの浅い顔立ちの年若い男が一人。
 名をレイノルド。ある開拓村で解体職人を生業とする青年だ。

 レイノルドも、望んで賤職に就いたわけではなかった。
 ただ止むに止まれぬ事情でそうせざるをえなかっただけだ。
 その選択が正しかったのかどうかは分からないが、少なくとも彼は、さほど不満には思っていなかった。

 物語はこの時より半年ばかり前、彼がこの村にたどり着く数日前から始まる。